『WATCHMEN』映画化について

最近観た映画が三本とも原作つきだったせいか、『300』のザック・スナイダーに『ウォッチメン』はどう映画化されるのかということばかり考えている。かの作品のストーリーは冷戦構造があってこそであるため、時代設定や背景などそのまま映画化するのは恐らく無理な話だろう。いや良いかもしれないが、僕のような冷戦を知らない世代が観て楽しめるものとなるかは疑問である。ならば時代を現代に近づけてしまえばいい。そこでまず思い起こされるのが今年見た映画の三本目、『ザ・シューター 極大射程』である。

『極大射程』から『ザ・シューター 極大射程』へ

ザ・シューター 極大射程』の時代設定は原作でのベトナム戦争後から現代へと変わり、主人公もエチオピア帰りのスナイパーへとなっている。現実にリンクする台詞や現代的な設定なども加わり、よりストーリーは現実味のあるものと変化している。もっともこの映画の場合はかなり詰め込みすぎ、はしょり過ぎ感は否めない(もっとも個人的な評価を問われるならば、この映画には隠れた佳作との評価を下さざるを得ないだろう。僕はワンマンアーミーや「スーパーで買えるもので軍隊を撃退する方法」が好き過ぎる)。
では『ウォッチメン』も『極大射程』が『ザ・シューター 極大射程』になったように、ただ単純に時代を現代へと移すだけで映画化が完了するのだろうか。答えは否である。二つの超大国の対立はそのストーリーの奥深くに根ざしており、一国にパワーが集中した現代では、かの作品での陰謀は全く非合理的である(なんども撮影が頓挫したのもそれが理由だろう)。どうすればいいんだ。

虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

というわけで『虐殺器官』。一読して「ああ、これは近未来版『ウォッチメン』なんだなあ」と感じた。世界中で民族虐殺を主導していく男とその動機を追う特殊部隊員、そしてヒーロー狩りの首謀者を追う孤独なマスクドヴィジランテがかなり重なって見える(双方とも母にトラウマ持ち!)のもさりながら、追われる男の目指すものが重なりすぎている。重なっているというのは当然重なっていないところもあるわけで(ああもういいや。『ウォッチメン』も『虐殺器官』もネタバレしちまおう)。
「どうしたら戦争がなくなって平和になるの?」という問いを突き詰めたのが両作品。
ウォッチメン』では二大国のやがて来る激突を止めるため、宇宙からの侵略を装ってニューヨーク市民の虐殺が行なわれた。各国は一致団結することを誓うがこれはあくまで冷戦時の回答であり、非対称型の戦争をむしろ着目しなければならない現代では全くの不正解である。宇宙からの侵略程度では「テロ」も「テロとの戦い」も止められはしないし、それこそ『ウォッチメン』が単純に舞台を現代に移せない理由なのだ。
現代において全世界を平和にするのはもはや不可能という結論が出たので、救えるものと救えないものとの間の線を冷酷に引かなければならない。それが『虐殺器官』であり、ジョン・ポールの行なったことである。テロを行なうやつらには自分たちで殺し合わせておき、かつてテロを受けた人々は平和を享受する。これぞ現代的な回答。

じゃあジョン・ポールメソッドが果たして『ウォッチメン』にそのまま適用されるかというと、それはそれで違う気がする(『ウォッチメン』の黒幕は多分ジョン・ポールメソッドになど思いもよらないだろう)。なんにしろ映画化にあたり『ウォッチメン』のどこが改変されどこが改変されないのか、非常に楽しみである。という月並みな言葉で幕。