私の一世紀(ギュンター・グラス)

気付いたら半年も放置してて赤面。さて、ついったと読書メーターで自分のアウトプット欲は満足できてるなあという感じなんだけど、140字じゃ表現できない情熱というのもこの世にはある! ので、そんな感じで使用っていきたいと改めて思ったりなかったり。前もこんな感じのことは言った気がするけど。
ちうわけでギュンター・グラスの『私の一世紀』。

私の一世紀

私の一世紀

コイツを読もうと思ったのは、エルンスト・ユンガーの"In Stahlgewittern."(『鋼鉄の嵐の中で』)をどうにか読めねーかといろいろ検索してるうちに、ユンガーとレマルクの仮想対談が収められてると知ったからで。この両者がどう捉えられてるかってーと、一次大戦後にユンガーは戦争賛美、レマルクはモロ反戦、『西部戦線異状なし』の主人公最後に死んじゃうし。という、まあバリ右翼とバリ左翼的な。ヘイ彼女、『西部戦線異状なし』の映画観たことある? 俺っち観たことないけど、そんなカンジ。蝶々捕まえようと塹壕から頭出して死んじゃうんだよね。
とまれ、ユンガーとレマルクは実際に対談などしていない。ケド、いわゆれ「真実は必ずしも事実によってのみ語られるものではない」わけで、作者の人がWW1を多角的にアレするため実際は行われなかったイベントを設定したのなら、読者としてはそれにガンガン乗っかってくだけですよみたいな。
そして読んでみたところ、こいつぁどえらいシミュレーション、もとい、どえらい小説、というか小説と呼んで良いのかすら分からないレベル。
この本はタイトル通り20世紀を概観したもので、1900年から1999年までの百年間、一年につき一編の短編小説が収められてるってカタチになってる(いわゆる20世紀とは一年ズレがある)。つっても明確に一年一編ではないし、回想や書簡、同窓会的な集まりなどがあるため、19xx年のイベントが19xx年に書かれるってわけでもない。先述のユンガーとレマルクの対談はもちろん第一次大戦の年々に対応しているけど、それが開かれたと仮想された年は60年代で、それをさらにインタビュアーが80年代に回想するという感じ。
百の断片が相互に有機的な絡みを作りつつ「一世紀」という長編をなしていく……この発想を実現させたことのみで大きな価値があるだろうが、加えて作者グラスでさえ登場人物として登場する枠構造的な面白さや、歴史小説的な魅力なども兼ね備えられており、短い時間で読破してしまったのが申し訳なくなってくるくらいだ。といって一年一編のスピードで読んでいたら死ぬまでに読み終わらないが。
そしてラストの1999年、すでに死んでいたグラスの母がその年まだ生きていたという設定で、老人ホームから「戦争は嫌だねえ」と語る姿。ドイツの20世紀はそれ抜きでは語れなかったゆえに、その言葉は非常に重みを持つし、読者の側から見ても、その次の次の年に何が起きたかを知っているゆえに、その言葉は深い余韻を残す。
……しかし日本でこれを書ける人っているのかな。うーむ。


追記:レマルクの"In Stahlgewittern."、『鋼鉄のあらし』で探してみたら国会図書館にはちゃんとあったし、他にも三重大とかにあった。あとは取り寄せてもらうだけですね。しかし1930刊行というのは明らかに古すぎるだろJK。岩波あたり訳せよオラ。