鏡に映ったハリー・キャラハン――『奴らを高く吊るせ!』

クリント・イーストウッド主演作品『奴らを高く吊るせ!』である。主人公ジェドは牛泥棒と決め付けられ、釈明も聞かれずにリンチにあう。危ういところで助かった彼は自ら保安官となり、その仕事をするかたわら自分をリンチにかけた奴らを探すのだった。が。

奴らを高く吊るせ! [DVD]

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アマゾンのほうのあらすじもコピペしてみよう。

1880年代のオクラホマ牛泥棒の濡れ衣を着せられ、無法者たち9人に裁判もなしに縛り首にされた男ジェド・クーパー。奇跡的に助かった彼は、復讐の為に保安官となって舞い戻る…。一人また一人と血祭りに挙げていくジェド。だが彼を最後に待ち受けていたものは…?

西部・保安官・復讐と、普通のアクション映画にしか見えない。しかし、この『奴らを高く吊るせ!』には今ひとつそう言い切れないところがある。違和感をまとめてみよう。

主人公のかたくななまでの遵法精神

裁判もなしに首を縛られ、救出と裁判を経て自由になった主人公。その経歴から、彼は保安官となるにあたり「犯人を裁判にきちんとかけること」を最重要と考えているように思える。だから彼は決して犯人を殺さない(銃を向けられれば話は別だが)。牛泥棒三人を捕まえたとき彼のポリシーは顕著に現れる。その三人を決して殺そうとせず(途中そのうちの一人に襲われても!)、彼らを街まで一人で護送する。
私刑に一度自分を殺され、司法によって蘇った主人公は決して自分が私刑を執行することを許さない。単身で三人を護送した彼を見て判事は「愚かだが最高の保安官」と称えるが、皮肉なことはそのあとに生じる。

司法と主人公の衝突

主人公は司法に片想いを続けるが振られる。正確には司法の現実を目の当たりにし衝撃を受ける。きちんとした裁判所のない状況で、判事はせっせと首吊りに励んでおり、ジェドは牛泥棒三人のうち自分を襲わなかった二人を弁護しようと試みるが、歯牙にもかけられない。彼らの絞首刑シーンでは、恐らく酒によっての姦通で絞首刑となる男が延々と懺悔とアルコール批判を行ない、かなり居心地の悪い異色な雰囲気を出している。
結局主人公ジェドは、形だけの裁判が実は自分の受けた死刑とほとんど変わらないものではないかということを感じ、法を遵守し保安官を続けることにさえ抵抗を感じてしまう。一応それをやめることはないものの、あくまで復讐を完了させるまで、という期限付きで。

問題の解決しなさ

街の住人の一人で、美しい未亡人がいる。彼女は街に送られてくる囚人の顔をいつも確認するのだが、その理由が明かされるのは少しあと、ジェドと仲良くなるときである。彼女はいつも確かめていたのだ、夫を殺し自分を犯した無法者がそこにいないかを。
普通の映画であれば、実はその無法者はジェドの仇と同一人物であることが明らかになり、復讐を完了させたジェドがなし崩し的にハッピーエンドへと雪崩れ込むのだろう。『奴らを高く吊るせ!』の場合そうはならない。ジェドはそれなりに復讐を果たす、確かに。だがそれは決してハッピーエンドへと繋がっていかない。彼女の問題は宙に浮いたまま、唐突に物語は終幕を迎える。
ラストシーンそのものにもまた問題がある。
前述のような欺瞞に耐えかねた彼は保安官バッヂを返却する、しかし判事はそれを許さない。未開発のオクラホマ準州は圧倒的に人員が足りないし、州に昇格させようとしたら最高の保安官を手放すわけにはいかないのだ。ジェドの意思すらここでは尊重されず、仇を2人逃がしたことも明らかになり、結局彼は保安官職を続けざるを得なくなる。問題はやはり解決しない。


これら全て見ると、この映画が非常に爽快感が少ないことが分かるだろう。たしかにアクションシーンは良いかもしれないが、全体は無力感と寂しさに満たされている。そこで気付くのが背景も性格も彼と真逆なヒーローがいる、しかも同じクリント・イーストウッドで!ということだ。つまりハリー・キャラハン、「ダーティ・ハリー」である。

ジェド・クーパーとハリー・キャラハン

ジェド・クーパーとハリー・キャラハンは互いの鏡像である。ジェドは未開拓の西部を巡回するが、ハリーはあくまで現代の警察官だ。ジェドは法律を守り、ハリーはいざというときそれを破る。
法に対する両者のスタンスは面白い。無法に命を奪われかけ法にそれを救われたジェドは、公正をもたらすものとして法を信じている。対してハリーはそれが特定の状況で機能しないと感じている。被害者の安全のためなら加害者の人権など知ったことではない、ブチのめして情報を聞き出すのはむしろ当然ということだ。

しかし鏡像でも上下は同じなように、どこか彼らは似通っている。
例えば、双方のラストシーンだ。一旦バッヂを返し再びそれをつけたジェド。バッヂを投げ捨てたハリー。最終的に選択は逆になってしまったが、二人が両方ともバッヂを外すという同じ選択をしたことは興味深い。
恐らくジェドは「西部劇中の現代ヒーロー」であり、ハリーは「現代劇中の西部劇ヒーロー」なのだろう。彼らはまわりと意見を合わせることが出来ないという点で似ている。