『第三の男』についてちょっと。

ブックオフで250円だったから思わず買ったんだけど、昔観たエヌ・ハー・カーのやつよりも明らかに字幕が低コストだった。それはともかく考えたいことはおもに二つ、「観客と主人公のズレ」と「ストーリィ上の主人公・演出上の主人公」である。
前者については、あー、ミステリとの絡みでいろいろ考えてみると面白いかもしれない。無論この映画はある種のミステリ、親友の死の真相を異国で探るものだが、主人公と親友のフレンドシップが具体的にどのようなものだったかというのはほとんど語られないし、回想シーンなども無論ない。だから、勢い観客は右往左往する主人公を一歩引いた、いささか生暖かい視線で見守ることになるし、また観客は事件の真相を主人公より一足早く察知することができる、映画的な演出によって。つまり観客の知識と主人公の知識は完全に重なることは決してない、ということ(作劇とか創作とかやってる人にとっては初歩の初歩のことだろうけど)。
後者。この映画はハリー・ライム(つまり「主人公」の親友)を軸にして回っている。「主人公」はスクリーンに映る時間こそ長いものの、実際の主役はオーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムであり、一番心に残る台詞は「豆粒」「鳩時計」である。二人の主人公が微妙に異なったポジションに就いている例は他にもたくさんあって、たとえば『夕陽のガンマン』のモーティマー大佐&名無しだとか。悪役であるインディオと因縁を持っているのはモーティマー大佐だけど、実際心に残るのは名無しのほうだよなあ、みたいな。うーんだんだんわけが分からなくなってきた。