普通に面白かった『四十七人目の男(スティーヴン・ハンター)』と、ヤングチャンピオンの素晴らしさについて

四十七人目の男〈上〉 (扶桑社ミステリー ハ 19-14)

四十七人目の男〈上〉 (扶桑社ミステリー ハ 19-14)

国辱って何? 俺ァ坊ちゃんじゃねえから全然わかんねえ。


スティーヴン・ハンターといえばボブ・リー・スワガーとその父アールの二代記、通称スワガーサーガであり、ボブのほうが『極大射程』『ブラックライト』『狩りのとき』の三部作できれいにオチていたので、もうボブ主人公の本は出ないだろうなーと思っていたところにこれ。「吉良上野介の首を落とした刀が硫黄島の戦いを期にアメリカに渡り、最後の所持者だった旧日本軍将校の息子にボブがその刀を返しに行ったところ、国粋主義ヤクザとの争いに巻き込まれる」という、あらすじだけで日本人がため息をつきそうな話である。
事実はじめて存在を知ったときは「なにこれ?」と言うよりほかなかった。しかし読んでみるとこれが意外にイカしていて、堪能した。
もちろんそこはかとなく間違ってる日本観やおよそ5ページに1つの割合で登場する突っ込みどころは弁護の仕様がない。超武闘派集団「新撰組」のリーダー:自称「近藤勇」とか、そのメンバーに「上泉」「半蔵」などがいる不思議とか、ゴルフクラブ3本でヤクザが自己主張するところとか、AV業界の帝王「ショーグン」が女優に痴女になれと叱咤激励するシーンとか。電車の中で鬼畜ロリエロ漫画を読むサラリーマンはひょっとしたらいるかもしれないけど。自分もヤングチャンピオン普通に読んでるし。ヤンチャンとAV業界で思い出したのがあれだ『18倫』。乙女のAVスタッフ奮闘記という。面白いです。『ウルフガイ』もおおむね原作をなぞりつつエロとバイオレンス五割増しだし、『凍牌』のハッタリぢからは素晴らしい。普通の麻雀漫画ではかませ能力のスーパー記憶力と超洞察力を持った主人公が裏レートで大活躍という。「へえ、竹牌って背中だけじゃなく上下左右も全部模様違うんだ」もはや笑うしかねえ。


ヤングチャンピオンの素晴らしさについては日を改めて語る、もしくは語らないとして、スティーヴン・ハンターの話をする。ここで大切なのは京極堂先生の名言、「狂人には狂人なりの理屈がある」だ。べつにこれはハンター先生が狂っているということではない。作品が外部から見てどうしようもなく狂っているように思えたとしても、作品内部では得てして筋の通っていることがほとんどである、ということだ。事実「ショーグン」がなぜ痴女になれとAV女優を叱咤激励するのか、なぜ彼が赤穂浪士の刀を欲しがるのか、なぜ彼を襲撃するのに都合四十七名が刀を装備するのかは“作品内では”それなりに筋が通っている。大体、正しく日本を描いた海外小説が読みたかったらクーンツの『真夜中への鍵』でも読んでろちう話で、語られる日本が変というのは別にこの際何の問題でもない。


それ以外の違和感、ボブのキャラクターとストーリーが合っていない点や演出の過剰さは、本書がアール・スワガーの三冊と同じノリなことに起因するだろう。ボブ・リーのほうがポリティカル風味正統派アクションだったのに対し、アールを主人公とする三冊『悪徳の都』『もっとも危険な場所』『ハバナの男たち』は歴史を利用した活劇チックなところがある。『悪徳の都』ではバグジー・シーゲルがアールの元部下フレンチー・ショートに暗殺されているし、『ハバナの男たち』で描写されるカストロのヘタレっぷりも同種だ。硫黄島の父親と赤穂浪士を強引に結びつける手法がそれらと同じであり、ボブ三部作のほうではほとんどなかったことである。
またこの三冊と『四十七人目の男』の共通点として、映画を意識していることも挙げられる。演出過剰さはボブ三部作の頃から『極大射程』の法廷シーンや、『狩りのとき』のラストでクレイモアのスイッチを押す場面などで見られた。しかしアール三部作ではより映画的な演出、もったいぶった台詞などが多用されている。例えば西部劇を外挿した『もっとも危険な場所』と本書の類似点を挙げるのはもの凄く簡単で、黒人強制労働施設襲撃に際し「蒼白い馬が来た」、黒幕の屋敷を襲撃するときCIAエージェントがボブに「あなたが四十七人目の男よ」とか言っちゃうセンスが全く。
ちうかボブ三部作が「守る話」でアール三部作が「攻める話」、こっちはどっちかというと「攻める話」だから、そこらへんもキャラクターとしてそぐわなさを感じる点。


大体絶対禁酒してたはずのボブさんが日本酒にコロリと参っちまうのが変な話だよなー。アールの話書きすぎてボブのキャラクター忘れてたんじゃねーかハンター先生。