『ジョジョの奇妙な冒険』4〜6部について

一般的にジョジョ各部の話をする際、「第四部を期に従来の少年誌的な(強大な敵に挑み、頑張ってそれを打ち破る!というような)展開から外れていった」という前提がある。確かに日常レベルで展開されるストーリーや、ラスボスのいい意味での小物っぽさを見ると、第四部はあまり少年誌的ではない気もしてくる。
しかし、だ。第四部で「運命」がどのように扱われているかに着目した場合、むしろその少年誌っぽさ、明るさが見えてくるはずだ。そこでは運命を変えることは難しいが、不可能ではない(もっとも、そのために行動を起こすのがスタンド使いならぬ市井の少年という点で第四部はまた特異と言えるのだが)。
そうしてみると第五・六部の「運命」の取り扱いは明らかに少年誌的ではない。第五部はまだ何とか言い訳ができるかもしれない、なぜならこの部の場合運命を変えること自体は不可能なものの、過程の努力は認められるからだ*1。それすら第六部においては認められず、あるのはただ意思の継承だけだ。
表にまとめてみる。

部数 最終的な敵のスタンド その効果
第四部 キラークイーン・バイツァ・ダスト 運命固定
第五部 キング・クリムゾン 運命知覚/操作
第六部 メイド・イン・ヘブン 運命固定
運命の改変 方策
可能(難) 運命を変える
不可能 過程での努力
無理 努力すら運命の手の内

第五部の場合、ローリング・ストーンにより予知される運命は三人の死であり、彼らがどのように死ぬか自体は言及されない。だからこそ過程での努力が意味のあるものになるのだが、第六部ではその経過すら固定される。そこに絶望を感じるか希望を感じるかが問題になってくるわけで。エンポリオくんだが、「運命がテメーをブン殴れって言ってるんなら、ブン殴るまで!」という実は滅茶苦茶アツい男だったのではないだろーか。

*1:第五部における運命の扱いは非常に難しい。キング・クリムゾンは自分の予知したことをブッ飛ばせるし、それだけを考えるなら運命は改変可能である。ここで述べたいのは、ローリング・ストーンが予知した「アバッキオナランチャブチャラティの死」についての改変可能性である。