学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD(1)(2)(佐藤大輔 佐藤ショウジ)

中学生が授業中に必ずやる恥ずかしい妄想(ある日学校にゾンビがあふれたらどうしよう、(なぜかゾンビになってない)好きなあの子と(なぜかゾンビになってない)僕とで行けるとこまでランデヴー、の類)をそのまま漫画にしちゃいましたテヘ、みたいな。いろいろ不満がある――というよりむしろ不満しかないような気がしてきたが適当に感想を書こう。


さてゾンビものの素晴らしさはどこにあるかというと、やはり敵たるゾンビの造型である。一言で言うなら、「死者が歩き回り、生者の肉を食らう」。内面も外見も変質してしまった元・人間の姿は、それだけで日常の崩壊(なんて安易な言葉なんだ)を生き残りの人間たちに印象付けるはずだ。
それから生き残った人間たちが自衛のため戦いを強いられること、これもまたゾンビものの魅力のひとつと言っていい。その相手となるのは言うまでもなくゾンビだが、生き残りの人間同士で食料などをめぐり争うこともこの種の作品ではよくあることである。ゾンビの群れの中に親しい友人の顔を見つけたときの葛藤や、瀕死の友人に最期の慈悲を請われたときの葛藤。それらもまたポイントではあるが、ここでは生き残り同士で争うことに注目しなければならない。
つまりゾンビが人間を襲い、人間同士は争いあうというこの歪な争いの構造のことである。襲い来るゾンビも人間も実はそう大差ないのではないかと気付く瞬間こそ、ゾンビものの到達点にして最大の恐怖なのだ。
これら3点においてよくできている舞台がショッピングモールだ。食料も武器も大量に揃ったこの場所は、古来より生ける屍やその他もろもろと戦う場所だった。『ゾンビ』然り『デッドライジング』然り、ゾンビ相手ではないが『霧』もまた然り。それにショッピングモールの客は全町民のうち誰がいても不思議ではなく、それゆえ生き残り内での分かたれたコミュニティ形成、それらの不可避な衝突はより自然なものとされる。ショッピング・モールなのにはわけがあるのだ。


ではこの漫画を見てみよう。キャラクターとしてのゾンビの造型、これはほぼ完璧に見える。学校という空間が突如として変質し、見慣れた友人たちもまたその姿を変えていく。主人公は目の前で親友の変貌を見ることになる。
問題なのはこの主人公だ。彼の性格は明らかに合理的過ぎる。それはもう「お前ひょっとして鉄でできてるんじゃないのか」ってぐらいに。親友に迷いなくとどめ刺そうとするし生き残り殺すのもためらいなしで、間違った状況にものすごい勢いで順応してやがる。これではゾンビものである意味がない。ただの異世界冒険もの、それもひどく出来の悪いやつだ。
自衛のための戦いという点ではどうだろうか。簡潔に言うと、死にそうなキャラクタがいなくてゲンナリする(まあ原作が大ちゃんだから、いきなり保険医あたりが腹ブチ抜かれても驚きはしない)。スリルもクソもあったものではない。なんとも好都合なことに銃器も大量にあり、読んでいてさらにゲンナリする。映画版ボブ・リー・スワガーみたいに、ガソリンと粘土をコネコネしたお手製ナパームぐらい作っていてほしいものである。
結論を急ぐとするとこの漫画はあまりにゲーム的(この言葉は使いたくないのだが)である。主人公の性格も単純明朗でゲーム的なら、戦闘力の高い仲間たちや大量の武器もそうだ。ここで少しRPG的なものを感じてしまい、「だったらアリじゃねーの」と思ったのだがそれはまた別の話。
最後に不満点を列挙しておく。

  • 主人公の性格とテーマの乖離
  • 主人公と仲間の死ぬ気配のなさ
  • 武器が充実しすぎでゲンナリ
  • 躊躇や葛藤が全くない
  • 悪い意味でのゲームっぽさ
  • こんなの書いてる暇あったらRSBC(ry


あと僕のバヤイ一読して思ったのが「なんか修学旅行っぽくて萎えるなあ」でした。主人公達一行は生ける屍の夜を引率の保健医に連れられ、そこそこ危険な目に遭いつつ状況に順応していくわけですね。読んでるこっちはスリルも全く感じないしやっぱりゲンナリだ。
あーそれから霧にもデッドラにも出てきたような教祖っぽい存在がいるわけですが、閉鎖環境ではないので全く恐怖を感じないという。再度出てきたときそういやこんなやついたね、となるのは必至。