20世紀の幽霊たち(ジョー・ヒル)

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

S.キング

本書の感想めいたものを書く前に、少しスティーブン・キングの話をしたい。といっても全然難しい話じゃない、キング好きには有名なちょっとしたエピソードたちと雑感程度のごくごく軽いサムシングだ。
彼のキャリアの初期を見たとき、特にはじめの三作だが、家庭が崩壊するさまがさまざまなパターンで描かれていることに気づく。主人公たちの家庭は、もともと歪んでいたにしろ(『キャリー』)正常だったにしろ(『呪われた町』『シャイニング』)、異物が混入することで音をたてて崩れていってしまう。もちろんホラーというジャンルが日常の破壊であるならば、日常の象徴たる家庭などいの一番に作者から狙われて当然である。しかし、この破壊ぶりにはどこか凄味を感じる。誰かが言った言葉に「殺人とは外的な自殺である」というのがあるが、ならば多かれ少なかれ自己を投影したであろう主人公たちが人を殺し、死にそうな目にあい、死んでいくのを書くことも、同じく自殺とそれに続く何かに他ならない。例えば『呪われた町』で、主人公の一人であるホラー好きの少年マークが本物の吸血鬼と出会い辛くも生き残るさまに、同じくホラー好きだった作者の気持ちを重ねることはものすごくまっとうな読みで、彼に焦点を合わせて読むととてもメタな気持ちになれる(どうしてもダメ神父に感情移入してしまうが)。ちなみにぼくは結構『呪われた町』が好きで好きでしょうがなくて、キング版「ポケットの中の戦争」じゃね? などと世迷言を抜かすことがよくある。『屍鬼』なんて無駄に長くてこっちが死にそうになるし、オマージュといえば『クロスファイア』より『バオー来訪者』のほうが問答無用で優れていることだなあ。
閑話休題。では実際の家庭においてキングはどのような人間だったのか。キング家の人間ではない身には分からないことだが、有名なエピソードがいくつかある。ゴミ箱に捨てた『キャリー』の書きさしの原稿を妻タビサに見つけられ、「これを書きあげなさい」と言われたことや、子どもにちょっかいを掛けられて一瞬殺意を抱いたことが『シャイニング』執筆のきっかけだったこととか*1。また息子オーエンのリトルリーグ遠征を自ら記録し、短編集『ナイトメアズ&ドリームスケープス』に収録してもいる。しかしそれらから父としての夫としてのスティーブン・キング像を推察することはほとんど不可能だ。『シャイニング』のエピソードを当の子供自身はどう思っているのか、などはものすごく気になる点であるが。また先述したメタ的な読みを『シャイニング』に対してすると、主人公の少年もその父も作者の投影のためものすごく複雑な気分になるものの、結局はネガティブな感情をポジティブな感情で押し返したぞ! やったー! ということになるのだろうか。よく分からない。「処女作にはその作家のすべてが表れる」というが、『キャリー』はよく分からない小説なので、スティーブン・キングはよく分からない作家だということでOKなのだろう。

J.ヒル

さてここまでスティーブン・キングとその家庭(作中においても実際のそれも)について考えたり考えることを放棄してみたりした。なぜわざわざそんなことをしたかというと、本書『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルが彼の息子だからである。『シャイニング』執筆のきっかけとなったのが彼かどうかは分からないが、収録された数々の短編でさまざまな父子の関係が描写されていて、そういえば以前に訳された長編『ハートシェイプド・ボックス』もヒロイン(すでに死亡)の父親がひどいやつで、でも冒頭の献辞は「父さん」に対してというねじれっぷりだったなあということを思い出したところで父キングについて考えてみたというのが実際だ。ここで本書に父殺しの隠喩に満ち溢れた作品が多く含まれていれば、スティーブン・キングの性格についてちょっとした推測が可能だったが、特にそうではないので期待外れ半分、でも良い本を読んだという気持ちも半分である。というわけで本書本体の感想に移ろう。

20世紀の幽霊たち

『ハートシェイプド・ボックス』がロックミュージックへの愛に満ち満ちていた作品だったように、本書も様々な形でポップカルチャーへの言及をしていく。例えば映画、例えばコミック。そしてもうひとつの特徴として、ジャンル小説的でない普通の短編小説をも収録していることが挙げられる。しかしその実ほとんどすべての収録作――幻想小説であれホラー小説であれ普通のであれ――が共通点として持っているのは「ちょっとしたずれ」だ。そのずれが読者の肩をすかすものであるか、それとも登場人物を恐れさせるものであるかはともかくとして。
一足先にまとめるなら、とにかく読者の予想を裏切り期待を裏切らない、良い短編集だと思う。繰り出された足払いを警戒していると正面からドツかれ、完璧に防御を固めたら「ああ、もう帰る時間だお疲れ」などと言われ、怒って追いかければハリセンではたかれる。面白い本を探してはため息をついている人とか、とにかくスゲー本を読んでみたい人にお勧めしたい。できれば父であるスティーブン・キングの作品に目を通しておくのもいいだろうが、必須ではない。ただ、ある程度読書慣れした人のほうがいいかもだけれど。
以下に気に入った短編の感想など書きとめ、ネタバレ気味考察を行う。



実質最初の短編となるのが「年間ホラー傑作選」で、ホラーアンソロジストのダルい毎日と突然襲いかかる恐怖を描いている。作中でホラーコンベンションに行くシーンがあり、そこで主人公とニール・ゲイマンが友人であることが示される。ちなみにニール・ゲイマンのコミック『サンドマン:ドールズ・ハウス』に連続殺人鬼たちの開くコンベンションなんて珍妙なものが出てくるが、後半の展開もありそれを思い出さざるを得なかった。
次の表題作20世紀の幽霊たちは逆にウェットな幽霊譚でなかなか良い。最後の叙述の仕方はどこかで見たことがあるが、今一つ思い出せずイライラする。映画+抒情という点では、ロメロ監督の「ゾンビ」でエキストラとして再会した元カップルのストーリー、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」もいい話だ。こちらは超自然的要素はないが、すこし幻想小説的な風味もある。
そして「ポップ・アート」は文句なく素晴らしい友情と成長の物語だ。風船人間というギミック(風船だからしゃべれないし、ピンで突かれれば破裂してしまう。意思は筆談で伝える)はもちろん少年の繊細さと不器用さのメタファーであり、ワルぶっていた主人公は彼との関わりの中で自分の持っているそれを自覚することになる。
意見の分かれるだろう「蝗の歌を聞くがよい」カフカの『変身』にB級モンスター映画を足して2で割ってみたといえば大体のストーリーは分かってしまう! しかしもし「変身」の主人公が孤独死する引きこもりニートの象徴なら、この主人公は銃を渡されれば喜んで通り魔と化すスクールカースト最下層である。父の「カインの末裔」『ハイスクール・パニック』『ゴールデン・ボーイ』がアンファン・テリブル風味サイコホラーだったのに対し、こちらはより即物的。ともすれば短編集の中でかなり浮いている印象を受けかねないし、作者が趣味性を多方向に向けて全開にした結果だろう。ぼくは大好きだが。
冴えない男が輝いていた過去を振り返りつつ不幸に巻き込まれていく「狭殺」はよくできたスリラーである。すぐれた短編の条件として「続きは読みたくあり、かつ読みたくないもの」というのがあるが、ならこれは最優秀短編のうちの一つだ。
アメコミ好きとしては外せないのは「マント」で、次の「末期の吐息」とは皮肉な落ちの付いた小品という点で共通している。
白眉が「自発的入院」発達障害の弟が地下室に構築した段ボールの迷宮と、それにまつわる奇怪な出来事。クトゥルー神話への微妙な言及が父の短編「クラウチ・エンド」を彷彿とさせる。

J.ヒルと『20世紀の幽霊たち

さて、今のところジョー・ヒルを語る際に父スティーブン・キングのことは欠かせない。ならば作品内での兄弟関係や父子関係と実際のそれらを重ね見つつ、もう少し考えてみたい。まず兄弟関係についてだが、ジョー・ヒルはキング家の長男で、上に姉のナオミ、下に弟オーエンがいる。思えば本書の多くの作品で子どもたちがメインキャラとして出てくるが、パターンを大きく3つに分けることができるだろう。

  • 兄弟

アブラハムの息子たち」「マント」「自発的入院」

「黒電話」

  • 一人っ子

「ポップ・アート」「蝗の歌をきくがよい」「うちよりここのほうが」「末期の吐息」「おとうさんの仮面」
兄弟がクローズアップされる三本のうち、兄が主人公となるのは「アブラハムの息子たち」「自発的入院」、弟視点なのは「マント」である。そしてこの三本はどれも、苦労人の兄と無邪気でともすれば兄を振り回す弟、という形をとっている。いわゆるパターン的なものだから、実際のキング家がどうだったかは分からないが、先述のノンフィクション「ヘッド・ダウン」で書かれた次男オーエンはかなり無邪気に輝いていた! 乳がん検査の広告をリトルリーグの仲間と回し読んで喜んでいるさまが克明に記述されていて、怒れよスティーブ親父などと思ってしまう。そして「黒電話」の主人公はもちろん弟である。つまり兄弟・姉弟ものの主人公に自分を投影しているんだよこれは! などとキバヤシめいたことを言っても怒られはしないはずだ。唯一の例外が弟を主人公とする「マント」だが、彼は兄が家に連れてきた女の子を取ってしまうわりとヒドめの人間なのだ。うーむ。
父と子の関係でいうとどうか? 上記の作品で、それが強いものは「ポップ・アート」「蝗の歌を聞くがよい」「アブラハムの息子たち」「うちよりここのほうが」「お父さんの仮面」だ。「マント」も加え、父が作中でどう描かれているか見てみるとこうなる。

ポップ・アート

理解がなく、意地が悪い。主人公はそのもとを去る。

蝗の歌を聞くがよい

毒虫と化した主人公に対し攻撃するも食われる。

アブラハムの息子たち

暴君、いささか狂人である。主人公に殺される。

うちよりここのほうが

頼りがいのあるダディ。

マント

すでに死んでいる。力の象徴。

お父さんの仮面

謎(というか作品自体が謎)。消え去る。ひょっとしたら妻と子の記憶からも。
父親とは力のシンボルであり、非ジャンル小説である「うちよりここのほうが」ではそれは庇護の力として働く。父が既に死んでいる「マント」ではただ純粋に象徴として。そしてそれ以外では父親は障害である。つまり子どもが倒すべきものか、はたは抜き去るものか。分けるならこうだ。

  • 父を殺す

「蝗の歌を聴くがよい」「アブラハムの息子たち」

  • 父を置き去りにする

「ポップ・アート」「お父さんの仮面」
「蝗の歌を聴くがよい」が「変身」のパロディであることや「お父さんの仮面」での主人公の受身さを考えれば、父を殺しまた置き去りにしようと主人公が明らかに意図しているものは「アブラハムの息子たち」「ポップ・アート」の二つだ(「お父さんの仮面」の主人公にエディプス・コンプレックス的なものがあるのは否めないが)。そしてそれが作品のテーマにまでなっているのは「アブラハムの息子たち」のみである。
というわけで、親父死ね死ね光線を発しているような短編がたくさんあればきっと愉快な結論が勝手に出たはずだが、特にそういうこともなく逆に長男の辛さを思い知らされてしまった。ぼくは次男なのだが、今のうちに兄孝行でもしておこうと思う。

なんとなく参考にしましたリンク

http://d.hatena.ne.jp/mikage_H/20081026/1225017639
http://d.hatena.ne.jp/cataly/20081028#p1
S.キング、ジョー・ヒル、オーエン・キングのそれぞれ人物項inウィキペディア(URL略)

サンドマン (3) (DC COMICS VERTIGO)

サンドマン (3) (DC COMICS VERTIGO)

*1:ソースが確認できない。ドキュメンタリーだかで言っていた気がする