吉里吉里人について

そろそろ吉里吉里人読んどかなくちゃなあ、と思った。


そもそも吉里吉里人なんで知ったかというと国語教師の脱線in中学時代。今でも覚えてるのは「東北の寒村が日本から独立する」「きんかくしに金が隠してある」程度のことだけど。
じゃあなんで今になって読まなくちゃいけないかという。これというのも、最近物語がどうのこうのとややこしいことを文系らしく考えつつ井上ひさしのエッセイなんぞ読んでたらスゲー文章に出会っちまったからだ。

大衆小説の変質は、読者が小説に物語の祖型を求めなくなった途端にはじまったというのが、ぼくの意見です。では読者は物語のかわりに小説に何を求めたのか。情報です。つまり、読者はいつの頃からか物語よりも情報を読みたがりはじめた。(『日本語は七通りの虹の色』より)

なるほどなあ。
そこで「アンタの考える物語の祖型ってなんだい」と刃牙(関係ないが僕はいつも「はきば」と打鍵する)ばりに聞いてみたくなるところだけど、ここはひとつ夜も寝ず昼寝して考えてみたよ。


物語には起承転結が必要、とはいってもそれとこれとは話が別で、祖型祖型祖型……物語にはまず主人公と、その敵がいる。打破すべき悪役だったり、状況だったり。そんでそいつらを打倒したり巻き込んでいったり内に取り込んだりして、さらなる自分の発展を目指したり目指さなかったりという。まさに止揚! それこそがドイツ古典主義の目指した理想ってやつじゃん。俺っち読んだことないけど、だいたいそんな感じ。
ともかくだ、思いを異にする価値観が主人公に立ちはだかる。異なる世界観が、と言ってもいい。そして主人公が内的葛藤やらコンフリクトを経、ハッピーになったりあるいは死んだりする。それこそが物語の祖型でありストーリーだよね、という。OK理解した。
じゃあ前述の文はアレだ。「価値観の衝突による内的葛藤が許されるのは前近代までだよねー」「キャハハハハ」「キモーイ」ということか。なら問題になるのは、なぜそれらが必要とされなくなっただ。


価値観の衝突ちうても小さなレベルの衝突ならそこにドラマは生まれないわけで、例えば「鳥の唐揚げにレモンかける派とかけない派の間で起こった全局面的闘争」なんて読みたいとか思うかなあ? 個人的には非常に読みたいところだけど、でもやはりドラマが湧き起こるのは大きなレベルでの価値観の衝突だろうとも思う。例えばヴィルヘルム・テルゲスラーをブチ殺すのは決して腹いせではなく父が子に弓を向けたという不合理を解消するためだし、ハムレットの人が叔父を殺すのも単純な復讐じゃなくて王権神授説の名の下に神にかわってお仕置き、もとい神の代わりに断罪するっていう話じゃん。個人の葛藤の末に下された決定がより大きなレベルへと伝播していくという。
でも現代はそんなこと言っても誰も気にしやしねー。一人一人が日々の生活をニコニコやってるだけで完結してしまうのだし、売れてる本も「犬が死んで悲しい」とか「恋人が死んで悲しい」とかの類。だいたい現実見たって個人が大きなレベルへコミットしていける方法? それこそテロルか戦争かアクメツぐらいしかないじゃない。まあそれでもリアリティがないにもほどがあるけど。


じゃあ『吉里吉里人』はどうなるの、というのがやっとの本題です。物語の祖型は価値観の衝突や軋轢にあったが、現代はそもそも日々の生活が強力すぎて、大きなレベルでの話というのは後景はるかかなたに追いやられてしまう。あくまで現代性と日常との距離感を失わずに、それへコミットしていく方法は何かあるか。その問いへの答えが「独立」だったのでしょう。
井上ひさしはきっとこんなことを考えてたに違いないね。

「俺が小説に『物語の祖型』という牙を取り戻したんだ」
「沙翁のように、と言ってもらいたいね」


というわけで、井上ひさしジャック・ハンマーであることが分かったので「吉里吉里人読まなきゃなー」と思いつつ図書館行ったんですが、着いたころにはさっぱり忘れてて北村薫の円紫師匠ものばっか借りてました。再来週に延期だ。

サラエボの花

観てきました。ちょっとこれは感想書くのに時間かかりそうだ。
米沢穂信の『さよなら妖精』と重なるところがいくらかある、というとさすがに我田引水的なところがあるか。具体的な共通点って「真実の秘匿」と「悲劇的な暴露」ぐらいだし。あと「気付いたときにはもう手遅れ」とか。『さよなら妖精』のほうは主人公くんがどうしようもなく疎外されて終わるけど、こっちは一応当事者のフォローあるし。
暇ができたら書きます。