秘密機関長の手記(ヴァルター・シェレンベルク)

秘密機関長の手記 (1960年)

秘密機関長の手記 (1960年)

ナチスドイツ親衛隊少将にして国家保安本部第六局(国外諜報担当)の長を務めた、ヴァルター・シェレンベルクの回想記。
復刊ドットコムで何票か得ているが、訳者あとがきによれば全訳でなく「第一に防諜および諜報関係の純技術的問題を取扱った三章と、オットー・シュトラッサー暗殺の指名に関する章、外務省と諜報機関との勢力争いを述べた章の合計五章(中略)技術的問題や政治上の末節に属することなどを叙した箇所(中略)シェレンベルクが人から与えられた賞賛を書いている箇所」を省略しているそうだ。それらも全部訳してこそであろう、再びどこかから出版されるとしたら、そのときはぜひ全てを読んでみたい。


本書は著者が学費を得るためナチス党に入った学生時代から、手がけた和平工作がことごとく失敗し第二次世界大戦終結するまでの十何年かを振り返るもので、国家保安本部の一員として対外活動に精を出していた時代とその内容に多くページが割かれている。トハチェフスキー失脚やヘス事件など、数々のイベントに対する当事者としての記述が非常に興味深い。
また彼は自身エージェントとしてスペインやベルギーを飛び回った過去を持ち、そこでの活動や国内での防諜活動、特にポーランドユーゴスラビアなどの社交スパイのいぶり出しなどにも主体的に関わってきたこと、そしてその内容が克明に記されている。それらのなかで特に印象深いのは、国防軍の反政府派と偽りイギリス側と接触するくだり、またリッベントロップの命を受けウィンザー公(退位したエドワード八世)の誘拐計画を進めるくだりだろう。特に前者、演じている役に引きずられヒトラー退陣をうっすら考えるようになるところはかなり面白い。おそらくその経験があったからこそ、大戦末期に和平工作をしたりユダヤ人達を秘密裏に解放したりしたのだろう(連合国へのポイント稼ぎと見てもいいが)。
また多くの幕僚たちの性格や彼ら同士の足の引っ張り合いも関係者視点で記されている――ラインハルト・ハイドリヒに何度となくハメられかけたこと、リッベントロップがどうしようもなかったので代わりにパーペンを外務大臣にしようとヒムラーに掛け合ったこと、カルテンブルナーやミュラーのすごい田舎者ぶり、ボルマンとハイドリヒとヒムラーの権力闘争、などなど――。特に上官であるハイドリヒやヒムラーについて詳しく述べられていて、ヒムラーに和平を計画するよう進言するところは非常にドラマチックである。

「今までのところは君はその<もう一つの解決>と問題をどのようにしてルートに乗せるかという方法とを説明するだけで満足していたが、そのような種類の妥協がなりたち得る具体的な基盤についても少し話しあってみたらどうかね?」
用心深く私は反撃した。
「まさにそれこそ、閣下が抽斗の中にしまっていらっしゃるはずのものです」

この後3ページに渡り、著者とヒムラーという二人の策謀家がここはどうしよう、そこはああしてやろうと意見を交わす。その後彼は「最小限の領土を手放すことでドイツを現在の状況から救い出す」ことに努力を費やすことになったと述懐しているが、それがほぼ無駄だったことは皆の知るところだ。彼は当時を振り返ってさらにこう語る。

このプランの成功を信じていたとは、私も理想主義者であったし、またその理想主義を捨てきれなかったものだ。悲しいかな私は、時には希望の光明がわずかに差して来るにはしても、長い幻滅の道を歩むことになったのである。
時々私は、自分がどのようにも事態を動かすことができるように思った。しかし結局私は、歴史の巨大な機械のなかの取るに足りぬ歯車にすぎぬことを悟った。実際自分の軌道を回転する以外にいったい何ができたであろうか?

万能感と、それに続く無力さの実感。よく言われるところの「自分はただ命令されたことをやっただけである」とは少しニュアンスが異なるものがそこにあって、改めて第二次世界大戦という状況の巨大さを思い知る。

そしてドイツ降伏の二日後、画策していたスウェーデン側からの交渉も必要とされなくなり、著者の第二次世界大戦は終わりを告げる。最後の一行は簡潔だが、その分彼の感じたであろう無力さや寂しさがこちらに伝わってくる。

もはや何人も私の力を必要としていなかったのであった。


訳者が指摘するような欠点は確かに存在する。いわゆる戦争犯罪とは背を向けるスタンス、それと同時に自分を必要以上に飾る点などが結構見受けられる。しかし一幕僚の覚えたものすごい無力感がきちんと記されている点、そこに少なからず書籍として魅力を感じた。
ジャック・ヒギンズや佐藤大輔の著作で好意的な記述を受けている著者だが、実際はどのような人物だったのか。自身の書いたもので虚偽や虚飾の存在する可能性もあるが、なんとなくはつかめたように思う。


そしてナチスつながりで思い出されるのが、先月観たドキュメンタリー映画『敵こそ、わが友』。
というわけでつづく。もしくはつづかない。

普通に面白かった『四十七人目の男(スティーヴン・ハンター)』と、ヤングチャンピオンの素晴らしさについて

四十七人目の男〈上〉 (扶桑社ミステリー ハ 19-14)

四十七人目の男〈上〉 (扶桑社ミステリー ハ 19-14)

国辱って何? 俺ァ坊ちゃんじゃねえから全然わかんねえ。


スティーヴン・ハンターといえばボブ・リー・スワガーとその父アールの二代記、通称スワガーサーガであり、ボブのほうが『極大射程』『ブラックライト』『狩りのとき』の三部作できれいにオチていたので、もうボブ主人公の本は出ないだろうなーと思っていたところにこれ。「吉良上野介の首を落とした刀が硫黄島の戦いを期にアメリカに渡り、最後の所持者だった旧日本軍将校の息子にボブがその刀を返しに行ったところ、国粋主義ヤクザとの争いに巻き込まれる」という、あらすじだけで日本人がため息をつきそうな話である。
事実はじめて存在を知ったときは「なにこれ?」と言うよりほかなかった。しかし読んでみるとこれが意外にイカしていて、堪能した。
もちろんそこはかとなく間違ってる日本観やおよそ5ページに1つの割合で登場する突っ込みどころは弁護の仕様がない。超武闘派集団「新撰組」のリーダー:自称「近藤勇」とか、そのメンバーに「上泉」「半蔵」などがいる不思議とか、ゴルフクラブ3本でヤクザが自己主張するところとか、AV業界の帝王「ショーグン」が女優に痴女になれと叱咤激励するシーンとか。電車の中で鬼畜ロリエロ漫画を読むサラリーマンはひょっとしたらいるかもしれないけど。自分もヤングチャンピオン普通に読んでるし。ヤンチャンとAV業界で思い出したのがあれだ『18倫』。乙女のAVスタッフ奮闘記という。面白いです。『ウルフガイ』もおおむね原作をなぞりつつエロとバイオレンス五割増しだし、『凍牌』のハッタリぢからは素晴らしい。普通の麻雀漫画ではかませ能力のスーパー記憶力と超洞察力を持った主人公が裏レートで大活躍という。「へえ、竹牌って背中だけじゃなく上下左右も全部模様違うんだ」もはや笑うしかねえ。


ヤングチャンピオンの素晴らしさについては日を改めて語る、もしくは語らないとして、スティーヴン・ハンターの話をする。ここで大切なのは京極堂先生の名言、「狂人には狂人なりの理屈がある」だ。べつにこれはハンター先生が狂っているということではない。作品が外部から見てどうしようもなく狂っているように思えたとしても、作品内部では得てして筋の通っていることがほとんどである、ということだ。事実「ショーグン」がなぜ痴女になれとAV女優を叱咤激励するのか、なぜ彼が赤穂浪士の刀を欲しがるのか、なぜ彼を襲撃するのに都合四十七名が刀を装備するのかは“作品内では”それなりに筋が通っている。大体、正しく日本を描いた海外小説が読みたかったらクーンツの『真夜中への鍵』でも読んでろちう話で、語られる日本が変というのは別にこの際何の問題でもない。


それ以外の違和感、ボブのキャラクターとストーリーが合っていない点や演出の過剰さは、本書がアール・スワガーの三冊と同じノリなことに起因するだろう。ボブ・リーのほうがポリティカル風味正統派アクションだったのに対し、アールを主人公とする三冊『悪徳の都』『もっとも危険な場所』『ハバナの男たち』は歴史を利用した活劇チックなところがある。『悪徳の都』ではバグジー・シーゲルがアールの元部下フレンチー・ショートに暗殺されているし、『ハバナの男たち』で描写されるカストロのヘタレっぷりも同種だ。硫黄島の父親と赤穂浪士を強引に結びつける手法がそれらと同じであり、ボブ三部作のほうではほとんどなかったことである。
またこの三冊と『四十七人目の男』の共通点として、映画を意識していることも挙げられる。演出過剰さはボブ三部作の頃から『極大射程』の法廷シーンや、『狩りのとき』のラストでクレイモアのスイッチを押す場面などで見られた。しかしアール三部作ではより映画的な演出、もったいぶった台詞などが多用されている。例えば西部劇を外挿した『もっとも危険な場所』と本書の類似点を挙げるのはもの凄く簡単で、黒人強制労働施設襲撃に際し「蒼白い馬が来た」、黒幕の屋敷を襲撃するときCIAエージェントがボブに「あなたが四十七人目の男よ」とか言っちゃうセンスが全く。
ちうかボブ三部作が「守る話」でアール三部作が「攻める話」、こっちはどっちかというと「攻める話」だから、そこらへんもキャラクターとしてそぐわなさを感じる点。


大体絶対禁酒してたはずのボブさんが日本酒にコロリと参っちまうのが変な話だよなー。アールの話書きすぎてボブのキャラクター忘れてたんじゃねーかハンター先生。

吉里吉里人について

そろそろ吉里吉里人読んどかなくちゃなあ、と思った。


そもそも吉里吉里人なんで知ったかというと国語教師の脱線in中学時代。今でも覚えてるのは「東北の寒村が日本から独立する」「きんかくしに金が隠してある」程度のことだけど。
じゃあなんで今になって読まなくちゃいけないかという。これというのも、最近物語がどうのこうのとややこしいことを文系らしく考えつつ井上ひさしのエッセイなんぞ読んでたらスゲー文章に出会っちまったからだ。

大衆小説の変質は、読者が小説に物語の祖型を求めなくなった途端にはじまったというのが、ぼくの意見です。では読者は物語のかわりに小説に何を求めたのか。情報です。つまり、読者はいつの頃からか物語よりも情報を読みたがりはじめた。(『日本語は七通りの虹の色』より)

なるほどなあ。
そこで「アンタの考える物語の祖型ってなんだい」と刃牙(関係ないが僕はいつも「はきば」と打鍵する)ばりに聞いてみたくなるところだけど、ここはひとつ夜も寝ず昼寝して考えてみたよ。


物語には起承転結が必要、とはいってもそれとこれとは話が別で、祖型祖型祖型……物語にはまず主人公と、その敵がいる。打破すべき悪役だったり、状況だったり。そんでそいつらを打倒したり巻き込んでいったり内に取り込んだりして、さらなる自分の発展を目指したり目指さなかったりという。まさに止揚! それこそがドイツ古典主義の目指した理想ってやつじゃん。俺っち読んだことないけど、だいたいそんな感じ。
ともかくだ、思いを異にする価値観が主人公に立ちはだかる。異なる世界観が、と言ってもいい。そして主人公が内的葛藤やらコンフリクトを経、ハッピーになったりあるいは死んだりする。それこそが物語の祖型でありストーリーだよね、という。OK理解した。
じゃあ前述の文はアレだ。「価値観の衝突による内的葛藤が許されるのは前近代までだよねー」「キャハハハハ」「キモーイ」ということか。なら問題になるのは、なぜそれらが必要とされなくなっただ。


価値観の衝突ちうても小さなレベルの衝突ならそこにドラマは生まれないわけで、例えば「鳥の唐揚げにレモンかける派とかけない派の間で起こった全局面的闘争」なんて読みたいとか思うかなあ? 個人的には非常に読みたいところだけど、でもやはりドラマが湧き起こるのは大きなレベルでの価値観の衝突だろうとも思う。例えばヴィルヘルム・テルゲスラーをブチ殺すのは決して腹いせではなく父が子に弓を向けたという不合理を解消するためだし、ハムレットの人が叔父を殺すのも単純な復讐じゃなくて王権神授説の名の下に神にかわってお仕置き、もとい神の代わりに断罪するっていう話じゃん。個人の葛藤の末に下された決定がより大きなレベルへと伝播していくという。
でも現代はそんなこと言っても誰も気にしやしねー。一人一人が日々の生活をニコニコやってるだけで完結してしまうのだし、売れてる本も「犬が死んで悲しい」とか「恋人が死んで悲しい」とかの類。だいたい現実見たって個人が大きなレベルへコミットしていける方法? それこそテロルか戦争かアクメツぐらいしかないじゃない。まあそれでもリアリティがないにもほどがあるけど。


じゃあ『吉里吉里人』はどうなるの、というのがやっとの本題です。物語の祖型は価値観の衝突や軋轢にあったが、現代はそもそも日々の生活が強力すぎて、大きなレベルでの話というのは後景はるかかなたに追いやられてしまう。あくまで現代性と日常との距離感を失わずに、それへコミットしていく方法は何かあるか。その問いへの答えが「独立」だったのでしょう。
井上ひさしはきっとこんなことを考えてたに違いないね。

「俺が小説に『物語の祖型』という牙を取り戻したんだ」
「沙翁のように、と言ってもらいたいね」


というわけで、井上ひさしジャック・ハンマーであることが分かったので「吉里吉里人読まなきゃなー」と思いつつ図書館行ったんですが、着いたころにはさっぱり忘れてて北村薫の円紫師匠ものばっか借りてました。再来週に延期だ。

ハートシェイプト・ボックス(ジョー・ヒル)

ハートシェイプト・ボックス〔小学館文庫〕

ハートシェイプト・ボックス〔小学館文庫〕

さてこの本について語るべきことはたくさんあるような気がする。タイトルがニルヴァーナの名曲から取られているとか、そもそもロックネタが異様に多いとか、作者はスティーブン・キングの息子であるとか、そこで出てくる父との類似点・相違点とか、冒頭の引用がアラン・ムーアの小説からだとか。

もちろんそれは枝葉末節で本筋に比べればどうでもいいことだ。これは再生の物語である。幽霊に取り憑かれた自堕落な元ロック・スターが、逃避行と解決策探しをするにつれ救済されていく。ホラー小説であるが、父の書いたような(できれば比較はしたくないのだけれど)モダンな恐怖かというとどうもそうではない。ゴア表現やいわゆる論理的な幽霊撃退法とはほとんど無縁である(といっても、幽霊を追い払うのに使った策として「新曲のメロディのことを考える」というのがあり、クーンツの『ウィンター・ムーン』やフリッツ・ライバーの「歴戦の勇士」を思い出したが、あそこまでしつこくはない)。しかし登場する幽霊古臭いな。レファニュあたりに出てきてもおかしくないぐらいだ。


枝葉の方だって気になるのが人情というものなのでキングの話も少し。
いやーこないだ『回想のビュイック8』読んだんだけど、何あれ。みんな「どっちかというとグリーン・マイル系」とか言ってるけどまるっきり『トミー・ノッカーズ』じゃん。というかむしろトミー以下略からカタルシスと変態さを抜き出した感じ、ってそれ何が残ってるんだよ。あと『ドリームキャッチャー』も『IT』と『トミーノッカーズ』足して5で割った感じだよね。それはともかくとして無理やり『ハートシェイプト・ボックス』に似たキング作品を挙げるとするなら、『IT』『ローズ・マダー』「道路ウイルスは北へ向かう」。どちらかというと999収録の「妖女たち」(エリック・ヴァン・ラストベーダー)とかに近いような気もする。


なんか物凄く忙しくなる予感がする。前門のシュウカツ、後門のソツロンっていう。

不気味で素朴な囲われた世界(西尾維新)

昨日は西尾維新を読みました。

不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)

不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)

読者みんな初期戯言初期戯言うるさいから初期戯言ふうのを手遊びに書きました。みたいな感じ。普通。
さらに言うならオチが有名なジョークとかぶる。


本当は「うろおぼえウロボロス」にかこつけマスクドヒーローの話を延々しようと思ったけどパス。にしても初恋限定面白いですよね。

補足

これではさすがに感想でもなんでもなくもっと別の何かなのできちんとそれっぽいものを書きたい。
不本意な探偵」というものがある。聞いたことのある人は少ないだろうが、それもそのはず今僕がでっち上げた言葉だからしょうがない。つまり「不本意ながらも探偵の役割を背負わせられるキャラ」、旅先で殺人事件が起き学校で殺人事件が起き出先で殺人事件が起こるようなキャラクターのことである。このように見た目は普通の高校生など作りの自然なキャラに自然な流れで探偵役をやらせようとすると、不自然さが必然的に生じ、連続して不本意な探偵を演じるとなるとこれはもう不自然さの塊である。一連して犯人であるか、特定条件下で殺人事件の起きる確率を上昇させるスタンド使いか何かである。
ソビエトロシアでは閑話が僕を休題する。ではその種の不自然さをどう回避するのか。旅先で殺人事件を起こさない少年、あるいは少女探偵はどう造形するか。そのひとつが安楽椅子探偵である(そうすると今度はキャラの作りに不自然さというか中二っぽさというかそんなものが入ることになるが、誰もが安心して旅行に行くためにはその程度は必要な犠牲である)。
安楽椅子探偵、ということは情報の収集その他の雑事を誰か別人がやらなければならない。そしてその誰かとコミュニケイションを取らなくてはならないが、本作に出てくる安楽椅子探偵は喋らないのである。なら推理結果をどう出力するのかが問題になるが、そこはこれ。助手兼主人公の少年が彼女の表情を読み取り僕ら読者のために教えてくれるのだ。便利!てゆーかすすすすごい!
でもなにが信用されないってこの世に西尾維新作品の主人公と殊能先生の「仕事してます」ほど信用できないものはないので、彼の話す彼女の推理結果は言わば二重に信用ならない。もしも僕がこの作品にどこか地に足のつかない収まりの悪さを感じるなら、恐らくはそれか何かが原因なのだろう。

補足2

もちろん一番好きな少年誌はチャンピオンなのだけれど、ジャンプを読むと地力の差めいたものを感じずにはいられないな。あとマディに火のキメラ水のキメラとかが出てきて途中からバトル展開になったりしませんように。

最後の一壜(スタンリイ・エリン)

今日は図書館に行きました。年始休業明けで凄い行列。

最後の一壜 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

最後の一壜 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

スタンリイ・エリンというと、代表作の「特別料理」「倅の質問」などがそうであるように、最後の一行で意外な結末を明かす洒落た作家というイメージを持っていた。この短編集でもそういったものは多かったが、むしろ感じたのは「こんなのも書けたのか!」というちょっぴり新鮮な驚きというやつである。事実「最後の一壜」「警官アヴァカディアンの不正」などこそは最後の一撃フィニッシング・ストロークめいたものを感じるが、「エゼキエレ・コーエンの犯罪」「12番目の彫像」はじつに真っ当なミステリだし、サイコキラーものあり、ちょっとした痛快な復讐譚ありで非常にバラエティに富んでいる。
お気に入りは『銀と金』の画商とのギャンブルを思い出した「画商の女」、凡庸な男が犯してもいない犯罪を告白する羽目になる「内輪」、あとボロアパートの住人たちの群像劇「127番地の雪どけ」(登場人物が号室名。C1号とかB2号とか)など。もちろん表題作「最後の一壜」も面白い。多分以前流行ったヤンデレってやつ。

激突カンフーファイター(清水良英)

今日はライトノベルを読みました。

本書を何に例えよう。
マシンガンのようなギャグ、という比喩がある。
ならば――本書はさしずめレーザービームか。
切れ目が一切ないのだ。
つまり、見事にツッコミ役がいない、のである。
読者にクールダウンする暇を与えないのである。
地の文すら、ここではボケである。

カンフーファイターの正体は誰なのか?今ここで明らかになるのか!
博多っ子の期待を胸に頑張ってきた彼の活躍はここで幕を下ろすのか?
それ以前にカンフーファイターを博多っ子は知っているのか?
博多ではバッテン荒川と、どっちがメジャーなのか?
がんばれカンフーファイター!(88ページより)

恐ろしいことに、徹頭徹尾この調子で進むのである。
ラノベ三大奇書のうち一つ、だという。
うなずけるところである。


ストーリーは意外と手堅くまとまっているのかもしれない。阿智太郎ライクに。