語りに託すもの――コニー・ウィリス『航路』について

遅ればせながら『航路』を読み、第三章の語りについてつらつらと考えている。
『航路』は青背だから、多分ハヤカワ的にはSFとして売りたいんだろう。コニー・ウィリス、SF作家だし。ただ本作に関していうなら、非実在ガジェットはCTスキャンを超パワーアップさせたようなマシン、それから臨死体験時の脳の状態を追体験できる薬くらいで、わりとそのなんというか、地に足の着いたSF。というか、今は無理でも十年二十年先にはありえそうな、だいたいそんなタイプのアレなわけです。総合して考えると、あれれ、ミステリ色のほうが強くねえかこれ、みたいな。


どういう話かっつーと、主な題材はアレですね、臨死体験。なんか天使見たとか光るトンネルが云々とか、死んだおじいちゃんがなんか教えてくれたりしちゃったりなんかして、スピリチュアってる方々が喧々諤々してるアレ。
視点人物の一人、ドクター・ジョアンナ・ランダーは実際に臨死体験をした人々にインタビューするのが仕事なんだけれども、スピリチュアってるライターが取材を邪魔してきてフラストレーションたまり放題。自分は臨死体験がなぜ生じるのか科学的なメカニズムを探ろうとしているのに、「あれは<向こう側>からのメッセージなのです」だの「あれは死後の生が存在することの証拠なので、臨死後生体験と呼びましょう」だの、そういうのいいから、ってなもんです。
そうしてそれからもう一人の視点人物、ドクター・ライトが現れまして。彼の言うことには、超すごいCTスキャンみたいなマシンをブン回してる最中に偶然臨死体験をしてしまった人がいて、臨死体験中の脳パターン――脳のどの部位が活発に動いてるかとか――が取れてしまった。なんかこのパターン見たことあるなーと思ったら、とあるお薬を摂取したときの脳パターンと同じであったのだ。ということは、このお薬を使えば人工的に臨死体験の再現ができる、ということだす。スピリチュアってるライターもいい加減鬱陶しいし、じゃあ一緒に研究やりましょうそうしましょう、と。
でも世の中なかなかうまくいかないもので、集まる被験者はスピリチュアってる人やらUFOコンタクティやら到底サンプルとして不的確っぽい人々ばかり。こんな人達が見たものをそのまま言ってくれるわけないじゃん、チッしょうがねえなあ、というわけでドクター・ランダーが被験者となる、というお話でごんすな。


ミステリ色が強いってのは、ジョアンナが自分のシミュレーションから臨死体験の科学的メカニズムを解明するさま、並びに第三章以降の流れですね。


ほんでもってそのなんだ、世の中には泣ける泣けるとかいって涙腺殴りつけてくるような、読んでるうちに自分がページをめくってるのか玉葱の皮剥いてるのかわかんなくなってくるタイプの小説がありますけど、『航路』も売り方からしてそんな感じだよなあ。わしゃあこういうのは好かんでえ、などと言いつつも結局『航路』面白いし、確かに泣ける。ただ第三章の語りに若干違和感を覚えてしまったわけで。これからその第三章について考えていくわけで。
以下ごっつくネタバレ入ります。


読もう『航路』!


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RPG世界ドーナツ説とテッド・チャン「バビロンの塔」(『あなたの人生の物語』収録)

RPG世界ドーナツ説とは、RPGでのワールドマップを用いた移動システムで生じる違和感、それを論理的に解決するものである。
RPGの中で、ワールドマップを横方向に進み、端に辿り着いた次の瞬間、反対側にいる。これは地球の世界地図と同じだし、しっくりくる。問題は縦方向の移動で、上へ上へと進んでいくと、下に出る。よくよく考えてみればこれはおかしい。現実にあてはめるなら、北へ北へ進んでいたら何故か南極に着いていたと同じだ。ワールドマップから判断する限り、この世界は球形をしていない。

じゃあ実際はどんな形なの、というのが問題で、マップの右端と左端をまずくっつけてみる。そうするとマップを水平方向に一周できる形、つまり円筒ができあがる。次に、できあがった円筒の上端と下端をくっつけ、垂直方向に一周できる形を作る。完成するのはドーナツ、浮き輪、部屋の蛍光灯、とにかくそんな形だ。気取ってトーラスと呼んでもいい。とにかくそれが、ワールドマップと移動システムから論理的に導き出されたRPG世界の形である*1
はじめてこれを聞いたとき、漠然と持っていた違和感が解消され、ちょっとした興奮を味わったことを覚えている。


テッド・チャンの短編「バビロンの塔」は、主人公がある出来事から「世界がどのようにできているか」を理解する、という話だ。舞台は古代バビロニアを彷彿とさせる世界。主人公は天をも貫く高い塔の建設に従事していたはずが、気づけば地表に戻っている。そこから彼は世界がどのようにできているかを論理的に導き出す。言ってしまえばそれだけの短編だ。
それだけの短編なんだけれども、彼が世界の構造を導き出した際に味わう興奮、これはきっと大昔の人が地球が球形だと(いやな日本語だ)発見したときにも同じようなものを抱いただろう。もっといえば、RPG世界ドーナツ説を聞いた私の「うおーすげえ、なんか違和感あったけど、確かに辻褄合わせればそうなるな!」という興奮も、それと似ていたのかもしれない。


取り留めもなく終わる。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

*1:もっとも、このドーナツ世界が自転や公転をどうしているのかは今ひとつわからない

私の一世紀(ギュンター・グラス)

気付いたら半年も放置してて赤面。さて、ついったと読書メーターで自分のアウトプット欲は満足できてるなあという感じなんだけど、140字じゃ表現できない情熱というのもこの世にはある! ので、そんな感じで使用っていきたいと改めて思ったりなかったり。前もこんな感じのことは言った気がするけど。
ちうわけでギュンター・グラスの『私の一世紀』。

私の一世紀

私の一世紀

コイツを読もうと思ったのは、エルンスト・ユンガーの"In Stahlgewittern."(『鋼鉄の嵐の中で』)をどうにか読めねーかといろいろ検索してるうちに、ユンガーとレマルクの仮想対談が収められてると知ったからで。この両者がどう捉えられてるかってーと、一次大戦後にユンガーは戦争賛美、レマルクはモロ反戦、『西部戦線異状なし』の主人公最後に死んじゃうし。という、まあバリ右翼とバリ左翼的な。ヘイ彼女、『西部戦線異状なし』の映画観たことある? 俺っち観たことないけど、そんなカンジ。蝶々捕まえようと塹壕から頭出して死んじゃうんだよね。
とまれ、ユンガーとレマルクは実際に対談などしていない。ケド、いわゆれ「真実は必ずしも事実によってのみ語られるものではない」わけで、作者の人がWW1を多角的にアレするため実際は行われなかったイベントを設定したのなら、読者としてはそれにガンガン乗っかってくだけですよみたいな。
そして読んでみたところ、こいつぁどえらいシミュレーション、もとい、どえらい小説、というか小説と呼んで良いのかすら分からないレベル。
この本はタイトル通り20世紀を概観したもので、1900年から1999年までの百年間、一年につき一編の短編小説が収められてるってカタチになってる(いわゆる20世紀とは一年ズレがある)。つっても明確に一年一編ではないし、回想や書簡、同窓会的な集まりなどがあるため、19xx年のイベントが19xx年に書かれるってわけでもない。先述のユンガーとレマルクの対談はもちろん第一次大戦の年々に対応しているけど、それが開かれたと仮想された年は60年代で、それをさらにインタビュアーが80年代に回想するという感じ。
百の断片が相互に有機的な絡みを作りつつ「一世紀」という長編をなしていく……この発想を実現させたことのみで大きな価値があるだろうが、加えて作者グラスでさえ登場人物として登場する枠構造的な面白さや、歴史小説的な魅力なども兼ね備えられており、短い時間で読破してしまったのが申し訳なくなってくるくらいだ。といって一年一編のスピードで読んでいたら死ぬまでに読み終わらないが。
そしてラストの1999年、すでに死んでいたグラスの母がその年まだ生きていたという設定で、老人ホームから「戦争は嫌だねえ」と語る姿。ドイツの20世紀はそれ抜きでは語れなかったゆえに、その言葉は非常に重みを持つし、読者の側から見ても、その次の次の年に何が起きたかを知っているゆえに、その言葉は深い余韻を残す。
……しかし日本でこれを書ける人っているのかな。うーむ。


追記:レマルクの"In Stahlgewittern."、『鋼鉄のあらし』で探してみたら国会図書館にはちゃんとあったし、他にも三重大とかにあった。あとは取り寄せてもらうだけですね。しかし1930刊行というのは明らかに古すぎるだろJK。岩波あたり訳せよオラ。

汚れた7人(リチャード・スターク)

汚れた7人 (角川文庫)

汚れた7人 (角川文庫)

ジェイムズ・ウェストレイクが死んでしまったので、彼が別名義で書いた悪党パーカーシリーズのうち最近復刊されていた七冊目を読んだ。
このシリーズは犯罪小説ものなので、大抵は「デカいヤマをどうやるか?」という話である。深夜に一つの町を丸ごと封鎖したり、テレビ説教師の収益をまるごといただいてしまったり、主人公パーカーは過去たくさんの仕事をこなしてきた。彼が本書で挑んだのは「フットボールのチャリティ試合の収益」だが、物語はその数日後、隠れ家を五分ほど空けていた彼が異変に気付くところから始まる。情婦が殺され、奪った金が全額何者かに持ち去られていたのだ。かくしてプロ犯罪者のパーカーはアマチュア探偵の真似をし出すことになる。
といってもシリーズがシリーズなのでドタバタタッチになったりすることなどなく、パーカーの探偵業務は犯罪行為を行うのと同様淡々としている。果たして変化球な構成にする必要があったのかと思うぐらいだが、このシリーズ特有の中盤での視点変更で、その感想を改めなければならなかった。ここで視点は――ネタばらしになってしまうが――パーカーの情婦を殺し金を奪った男に移る。本書のもうひとりの主人公といっても過言でない彼がこの犯罪を行った理由、そして彼のパーカーへの恐怖が語られ、悪党パーカーシリーズでありながら悪党パーカーシリーズではない別のものを読んでいるような不思議な感覚を抱いてしまう。構成を変えた意味はあったのだ。
そしてラスト、パーカーに刃向った他の人間がそうなるように、彼もまたパーカーに破滅させられる。他の周りの人間に破滅と不幸をもたらすパーカーはまさしく悪党であり、転落がノワールの条件ならば本書は裏返しにされたノワールともいえるだろう。オチはどこか見覚えもあるが、良いものを読んだ。ウェストレイク/スタークよ安らかにねむれ。

ハヤカワ文庫SFで短編集が占める割合の変化について

ハヤカワ文庫SF(SF文庫とばかり言っていたが、どうやら逆が正式らしい)の1001番以降をチェックする機会があって、少し気付いたことがある。
「アンソロジーが出ていない」。
いや、正確を期すなら「1001番以降、シルヴァーバーグ編集の『SFの殿堂 遥かなる地平』と山岸真編集の『90年代SF傑作選』以外のアンソロジーがない」と言ったほうがいいだろう。SFの本質は短編にこそあるというが、さまざまな作家のさまざまな作品を一度に読めるアンソロジーが少ないというのはちょいと悲しすぎる。1000番以前は『冷たい方程式』やらなにやらあるのに……と思ったが、ひょっとしたらこれは心理的な何かによって勘違いさせられているだけかもしれないので、実際にデータを取って確かめてみることにした。ついでに短編集の冊数も調べることにする。
詳細なルールは以下。

  • 中短編集・アンソロジーをカウントする


資料として使ったのは、1000番以前のものは『ハヤカワ文庫SF 書評&目録 No.1〜1000』(名古屋大学SF研究会発行)、1001番以降はHideki Watanabe's SF Home PageのSF文庫データベースおよびハヤカワ・オンラインエルリック・サーガの扱いにバラつきがあったため、1000番以前のものは短編集、復刊されたものは長編として扱った。

番号 短編集など ローダン アンソロ 代表的なもの
1〜100 28 9 2 『地球人のお荷物』
101〜200 26 19 0
201〜300 34 14 3 『伝道の書に捧げる薔薇』、『ジョナサンと宇宙クジラ』、『太陽からの風』
301〜400 38 19 2 世界の中心で愛を叫んだけもの』、『冷たい方程式』、『風の十二方位』
401〜500 45 25 3 『白鹿亭奇譚』、『柔らかい月』、『鼠と竜のゲーム』
501〜600 38 21 1 『われはロボット』、『危険なヴィジョン[1]』、『サンドキングズ』
601〜700 40 20 0 『シティ5からの脱出』、『人間の手がまだ触れない』、『地球の緑の丘』
701〜800 31 19 1 『クローム襲撃』、『愛はさだめ、さだめは死』、『九百人のお祖母さん』
801〜900 28 19 1 『モンキーハウスへようこそ』、『蝉の女王』、『スロー・バード』
901〜1000 31 22 2(上下巻*1) 『パーキー・パットの日々』、『わが愛しき娘たちよ』、『80年代SF傑作選』
1001〜1100 28 22 0 タンジェント』、『ブルー・シャンペン』
1101〜1200 30 23 0 『ラッカー奇想博覧会』、「アシモフ初期短編集」、『第81Q戦争』
1201〜1300 28 25 0 『キリンヤガ』
1301〜1400 31 23 4(上下巻*2) 『祈りの海』『90年代SF傑作選』
1401〜1500 34(うち改訳2) 27 0 プランク・ゼロ』『あなたの人生の物語
1501〜1600 36(うち新装復刊6) 25 0 『タフの方舟』『グリュフォンの卵』
1601〜1697 31(うち新装復刊3) 24 0 『火星の長城』、『宇宙飛行士ピルクス物語(上下巻)』

気付いたこと:

  1. 最近ではハヤカワ文庫SFの四冊につき一冊がペリー・ローダン
  2. やっぱり1000番を境にアンソロジーがほとんど出ていない
  3. 201〜700あたりの短編集比率がかなり高い
  4. シリーズものでも連作短編集でもない「普通の短編集」は、復刊を別とすると、グレッグ・イーガンの『ひとりっ子』(2006/12/15)が最後

1に関しては、ペリー・ローダンシリーズの刊行頻度が上がったこともありもっと急激な変化を見せるかもと思っていたが、微増にとどまっている。復刊ラッシュの影響などによって全体の刊行点数が増えているのかもしれない。
2は予想を裏付ける結果となった。もっとも東京創元社や扶桑社が2000年前後から結構アンソロジーを出しており(『影が行く』、『幻想の犬たち』など)、その影響もあるかもしれない。翻訳したくなるようなアンソロジーが海外で出ていないという可能性もある。
3についてはローダン抜きで20冊前後の短編集というのが衝撃だった(エルリックやらスタトレやらも入ってるけど)。内容にしてもビッグ3のあれやこれ、ニーヴン、ゼラズニイエリスンコードウェイナー・スミスなどなどの充実ぶり、これでまだうしろにサイバーパンク勢やティプトリーラファティが控えているっつーのが驚き。
翻って今日の短編事情の貧しさを表すのが4である。新しく出てくる短編集のほとんどがシリーズものや連作短編集、同じ世界設定を共有した云々であり、いろいろなものを読みたい! という欲求にはあんまり答えてくれていない。要は安牌切ってばっか。奇想コレクション読めって? そいつぁもっともだけど、アレ高いじゃん。S-Fマガジン読めって? どこにも売ってないじゃんあの雑誌、小説宝石よかマシだけど。
というわけで、もっといろいろ短編が読みたいので、もっといろいろアンソロやら短編集やら出してほしいなあ、というのが結論。それかもはや英語スキルをガンガン上げて原書に挑戦したほうがいいかもだ。あとやっぱローダンはスゲえや。


最後に、データをお借りした渡辺様と名古屋大学SF研究会様に感謝。

イルーニュの巨人(クラーク・アシュトン・スミス)

イルーニュの巨人 (創元推理文庫)

イルーニュの巨人 (創元推理文庫)

復刊フェア対象作。C・A・スミスの作品でかつて自分の読んだのは、「暗黒神話大系」シリーズ収録作やアンソロジー『影が行く』の「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」ぐらい。ルリム・シャイコースが出てくるやつは未読、というか国書のアレをあまり読んでない。
それらの作品を読んで感じたのは、ホラーとファンタジーとSFがまだ未分化だった頃のにおいが強くあるってことで、例えるなら理屈を引いてユーモアを足したエドガー・アラン・ポオ。ネタや舞台が無意味にSFテイストな「七つの呪い」「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」、爆笑できるエイボンとモルギの珍道中、「ウボ=サスラ」の視覚的に書かれた気持ち悪さなどが心に残っている。
というわけで本書『イルーニュの巨人』だが、基本的にそういったこれまでの印象を変えるものではない。が、それなりに面白い短編はいくつかある。ホラー作品では「アヴェロワーニュの獣」「氷の魔物」、非ホラーでは「柳のある風景」「ユーヴォラン王の船旅」などなかなか楽しく読めた。ワンアイデアな話が多くあるのも、短編集として特徴的だろう。上記以外の一押しは「聖人アゼダラク」「シレールの女魔法使い」で、時間を巻き戻す薬や真実の姿を映し出す鏡などのマジックアイテムが効果的に使われている。


他の復刊フェア対象作、『大宇宙の少年』『ドリーム・マシン』『毒薬ミステリ傑作選』なんかも、機会があればぜひ読みたい。

20世紀の幽霊たち(ジョー・ヒル)

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

S.キング

本書の感想めいたものを書く前に、少しスティーブン・キングの話をしたい。といっても全然難しい話じゃない、キング好きには有名なちょっとしたエピソードたちと雑感程度のごくごく軽いサムシングだ。
彼のキャリアの初期を見たとき、特にはじめの三作だが、家庭が崩壊するさまがさまざまなパターンで描かれていることに気づく。主人公たちの家庭は、もともと歪んでいたにしろ(『キャリー』)正常だったにしろ(『呪われた町』『シャイニング』)、異物が混入することで音をたてて崩れていってしまう。もちろんホラーというジャンルが日常の破壊であるならば、日常の象徴たる家庭などいの一番に作者から狙われて当然である。しかし、この破壊ぶりにはどこか凄味を感じる。誰かが言った言葉に「殺人とは外的な自殺である」というのがあるが、ならば多かれ少なかれ自己を投影したであろう主人公たちが人を殺し、死にそうな目にあい、死んでいくのを書くことも、同じく自殺とそれに続く何かに他ならない。例えば『呪われた町』で、主人公の一人であるホラー好きの少年マークが本物の吸血鬼と出会い辛くも生き残るさまに、同じくホラー好きだった作者の気持ちを重ねることはものすごくまっとうな読みで、彼に焦点を合わせて読むととてもメタな気持ちになれる(どうしてもダメ神父に感情移入してしまうが)。ちなみにぼくは結構『呪われた町』が好きで好きでしょうがなくて、キング版「ポケットの中の戦争」じゃね? などと世迷言を抜かすことがよくある。『屍鬼』なんて無駄に長くてこっちが死にそうになるし、オマージュといえば『クロスファイア』より『バオー来訪者』のほうが問答無用で優れていることだなあ。
閑話休題。では実際の家庭においてキングはどのような人間だったのか。キング家の人間ではない身には分からないことだが、有名なエピソードがいくつかある。ゴミ箱に捨てた『キャリー』の書きさしの原稿を妻タビサに見つけられ、「これを書きあげなさい」と言われたことや、子どもにちょっかいを掛けられて一瞬殺意を抱いたことが『シャイニング』執筆のきっかけだったこととか*1。また息子オーエンのリトルリーグ遠征を自ら記録し、短編集『ナイトメアズ&ドリームスケープス』に収録してもいる。しかしそれらから父としての夫としてのスティーブン・キング像を推察することはほとんど不可能だ。『シャイニング』のエピソードを当の子供自身はどう思っているのか、などはものすごく気になる点であるが。また先述したメタ的な読みを『シャイニング』に対してすると、主人公の少年もその父も作者の投影のためものすごく複雑な気分になるものの、結局はネガティブな感情をポジティブな感情で押し返したぞ! やったー! ということになるのだろうか。よく分からない。「処女作にはその作家のすべてが表れる」というが、『キャリー』はよく分からない小説なので、スティーブン・キングはよく分からない作家だということでOKなのだろう。

J.ヒル

さてここまでスティーブン・キングとその家庭(作中においても実際のそれも)について考えたり考えることを放棄してみたりした。なぜわざわざそんなことをしたかというと、本書『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルが彼の息子だからである。『シャイニング』執筆のきっかけとなったのが彼かどうかは分からないが、収録された数々の短編でさまざまな父子の関係が描写されていて、そういえば以前に訳された長編『ハートシェイプド・ボックス』もヒロイン(すでに死亡)の父親がひどいやつで、でも冒頭の献辞は「父さん」に対してというねじれっぷりだったなあということを思い出したところで父キングについて考えてみたというのが実際だ。ここで本書に父殺しの隠喩に満ち溢れた作品が多く含まれていれば、スティーブン・キングの性格についてちょっとした推測が可能だったが、特にそうではないので期待外れ半分、でも良い本を読んだという気持ちも半分である。というわけで本書本体の感想に移ろう。

20世紀の幽霊たち

『ハートシェイプド・ボックス』がロックミュージックへの愛に満ち満ちていた作品だったように、本書も様々な形でポップカルチャーへの言及をしていく。例えば映画、例えばコミック。そしてもうひとつの特徴として、ジャンル小説的でない普通の短編小説をも収録していることが挙げられる。しかしその実ほとんどすべての収録作――幻想小説であれホラー小説であれ普通のであれ――が共通点として持っているのは「ちょっとしたずれ」だ。そのずれが読者の肩をすかすものであるか、それとも登場人物を恐れさせるものであるかはともかくとして。
一足先にまとめるなら、とにかく読者の予想を裏切り期待を裏切らない、良い短編集だと思う。繰り出された足払いを警戒していると正面からドツかれ、完璧に防御を固めたら「ああ、もう帰る時間だお疲れ」などと言われ、怒って追いかければハリセンではたかれる。面白い本を探してはため息をついている人とか、とにかくスゲー本を読んでみたい人にお勧めしたい。できれば父であるスティーブン・キングの作品に目を通しておくのもいいだろうが、必須ではない。ただ、ある程度読書慣れした人のほうがいいかもだけれど。
以下に気に入った短編の感想など書きとめ、ネタバレ気味考察を行う。

*1:ソースが確認できない。ドキュメンタリーだかで言っていた気がする

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