ハヤカワ文庫SFで短編集が占める割合の変化について
ハヤカワ文庫SF(SF文庫とばかり言っていたが、どうやら逆が正式らしい)の1001番以降をチェックする機会があって、少し気付いたことがある。
「アンソロジーが出ていない」。
いや、正確を期すなら「1001番以降、シルヴァーバーグ編集の『SFの殿堂 遥かなる地平』と山岸真編集の『90年代SF傑作選』以外のアンソロジーがない」と言ったほうがいいだろう。SFの本質は短編にこそあるというが、さまざまな作家のさまざまな作品を一度に読めるアンソロジーが少ないというのはちょいと悲しすぎる。1000番以前は『冷たい方程式』やらなにやらあるのに……と思ったが、ひょっとしたらこれは心理的な何かによって勘違いさせられているだけかもしれないので、実際にデータを取って確かめてみることにした。ついでに短編集の冊数も調べることにする。
詳細なルールは以下。
資料として使ったのは、1000番以前のものは『ハヤカワ文庫SF 書評&目録 No.1〜1000』(名古屋大学SF研究会発行)、1001番以降はHideki Watanabe's SF Home PageのSF文庫データベースおよびハヤカワ・オンライン。エルリック・サーガの扱いにバラつきがあったため、1000番以前のものは短編集、復刊されたものは長編として扱った。
番号 | 短編集など | ローダン | アンソロ | 代表的なもの |
---|---|---|---|---|
1〜100 | 28 | 9 | 2 | 『地球人のお荷物』 |
101〜200 | 26 | 19 | 0 | |
201〜300 | 34 | 14 | 3 | 『伝道の書に捧げる薔薇』、『ジョナサンと宇宙クジラ』、『太陽からの風』 |
301〜400 | 38 | 19 | 2 | 『世界の中心で愛を叫んだけもの』、『冷たい方程式』、『風の十二方位』 |
401〜500 | 45 | 25 | 3 | 『白鹿亭奇譚』、『柔らかい月』、『鼠と竜のゲーム』 |
501〜600 | 38 | 21 | 1 | 『われはロボット』、『危険なヴィジョン[1]』、『サンドキングズ』 |
601〜700 | 40 | 20 | 0 | 『シティ5からの脱出』、『人間の手がまだ触れない』、『地球の緑の丘』 |
701〜800 | 31 | 19 | 1 | 『クローム襲撃』、『愛はさだめ、さだめは死』、『九百人のお祖母さん』 |
801〜900 | 28 | 19 | 1 | 『モンキーハウスへようこそ』、『蝉の女王』、『スロー・バード』 |
901〜1000 | 31 | 22 | 2(上下巻*1) | 『パーキー・パットの日々』、『わが愛しき娘たちよ』、『80年代SF傑作選』 |
1001〜1100 | 28 | 22 | 0 | 『タンジェント』、『ブルー・シャンペン』 |
1101〜1200 | 30 | 23 | 0 | 『ラッカー奇想博覧会』、「アシモフ初期短編集」、『第81Q戦争』 |
1201〜1300 | 28 | 25 | 0 | 『キリンヤガ』 |
1301〜1400 | 31 | 23 | 4(上下巻*2) | 『祈りの海』『90年代SF傑作選』 |
1401〜1500 | 34(うち改訳2) | 27 | 0 | 『プランク・ゼロ』『あなたの人生の物語』 |
1501〜1600 | 36(うち新装復刊6) | 25 | 0 | 『タフの方舟』『グリュフォンの卵』 |
1601〜1697 | 31(うち新装復刊3) | 24 | 0 | 『火星の長城』、『宇宙飛行士ピルクス物語(上下巻)』 |
気付いたこと:
- 最近ではハヤカワ文庫SFの四冊につき一冊がペリー・ローダン
- やっぱり1000番を境にアンソロジーがほとんど出ていない
- 201〜700あたりの短編集比率がかなり高い
- シリーズものでも連作短編集でもない「普通の短編集」は、復刊を別とすると、グレッグ・イーガンの『ひとりっ子』(2006/12/15)が最後
1に関しては、ペリー・ローダンシリーズの刊行頻度が上がったこともありもっと急激な変化を見せるかもと思っていたが、微増にとどまっている。復刊ラッシュの影響などによって全体の刊行点数が増えているのかもしれない。
2は予想を裏付ける結果となった。もっとも東京創元社や扶桑社が2000年前後から結構アンソロジーを出しており(『影が行く』、『幻想の犬たち』など)、その影響もあるかもしれない。翻訳したくなるようなアンソロジーが海外で出ていないという可能性もある。
3についてはローダン抜きで20冊前後の短編集というのが衝撃だった(エルリックやらスタトレやらも入ってるけど)。内容にしてもビッグ3のあれやこれ、ニーヴン、ゼラズニイ、エリスン、コードウェイナー・スミスなどなどの充実ぶり、これでまだうしろにサイバーパンク勢やティプトリー、ラファティが控えているっつーのが驚き。
翻って今日の短編事情の貧しさを表すのが4である。新しく出てくる短編集のほとんどがシリーズものや連作短編集、同じ世界設定を共有した云々であり、いろいろなものを読みたい! という欲求にはあんまり答えてくれていない。要は安牌切ってばっか。奇想コレクション読めって? そいつぁもっともだけど、アレ高いじゃん。S-Fマガジン読めって? どこにも売ってないじゃんあの雑誌、小説宝石よかマシだけど。
というわけで、もっといろいろ短編が読みたいので、もっといろいろアンソロやら短編集やら出してほしいなあ、というのが結論。それかもはや英語スキルをガンガン上げて原書に挑戦したほうがいいかもだ。あとやっぱローダンはスゲえや。
最後に、データをお借りした渡辺様と名古屋大学SF研究会様に感謝。
本を読むということ
いろんな人とガーッと喋ったりしている間になんとなく気がついたことがあって、本当はそこまでにいたった経路をまとめたり論証したりが必要なんだろうけど、文を書くのは苦手なので(ここも放置しがちだし)気付いたそのことを先に書いてしまうことにする。
「『本を読むのが好き』という人は多いけど、その多くが『自分の好きな本を読むのが好き』なんでしかない」。
「趣味は読書です! ドストエフスキーを愛してます!」
さてそんなハトよめの台詞はともかく、例えば自己紹介で読書を趣味と言う人は少なからずいる。けれど、そもそも趣味ってなんだろう、好きってなんなんだろう。そういうことを考えたとき、「きみの趣味が読書って、なんかの冗談?」みたいに煽りたくなる奴ら、趣味ってのはそういうレベルのもんじゃないだろと張り倒したくなる自称本好きが多すぎる。
そもそも趣味っつーぐらいだからある程度の熱意はあっていてほしい。読書が趣味というのなら、自分の好きな一冊について熱く語るとか、ジャンルに賭ける熱い思いとか、この作家がスゲエとか、そういうのをぜひ聞きたい、自分の読書もより豊かにするために。……というのに彼ら、似非本好きどもときたらお勧めの本聞いてもお勧めの作家聞いても一時停止ボタン押したみてえに動きやしねえ! なんなんだあいつら、心臓もいっしょに停止してんのか!?
……つーと「それは好きな本や作家が多くて止まってるだけじゃないかなー」みたいなことを諸兄ら思うんだろうけど、そんなん甘いよ甘いペプシNEXよりも。現に妥協して最近読んだ面白かった本をなんとか聞き出して、元ネタ的な本やら同じようなタイプの本勧めてもちっとも読みやしないし、目の前に並べても取ろうとさえしない。要は「本が好き」「趣味は読書」とか言ってるわりには、好きなはずのそれに興味も好奇心も示さず、趣味なはずのそれを発展させる気もない。おかしくねえか、趣味ってそんなもんなのか? んでもってなんか面白い本ありますかとか聞いてくるから、今まで読んだので面白かったのとか聞いたうえでなんか貸すじゃん。3日で返してくるからもう読んだのかと思って話聞くとどうやらそうじゃないらしい、読む時間がなくて……とか、ちょっと読んだけど合わなくて……とか言いやがる。挙句の果てには「やっぱり『(今読んでる本の書名)』が最高ですよ!」などと仰る。はあそうですか、だよ。それでその本のどこが好きかとか聞くと、やっぱりまた停止しちまう。おいおいおい本いっぱい読んでて言葉もたくさん知ってんだろ? なのになんで何も言えねーんだよ、いったいおれにどうしろってんだ。
さて読書サークル的なところでそんなことが何回もあっておれが完璧に理解したのは、「読書が趣味」とか「本が好き」とか言ってるやつの多くは、その実「本が好き」なのでも「読書を趣味としている」わけでもないということだ。そいつらは「自分の好きな本だけが好き」なのであり、「趣味となるような何かがなかったからただ本を読んでいただけで、別にそれが趣味になったわけでもない」。
そんなやつらがのさばっているおかげで、「履歴書の趣味の欄に読書と書いてあったら即落としますよ(笑)」などとのたまうワンマン社長も出てくるし、おれも「趣味は読書ですねー」なんて自己紹介を聞いた途端に瞬間湯沸かし器。
本を読むということについて
「クソどもが、あいつら自称本好きのくせに自分の好きな本しか読みやがらねえ」的なことを延々と書いた。しかし「自分の好きな本を読むのが好き」というのは、恐らく多かれ少なかれ皆がそうだろう。自分にもその傾向はある。自称本好きと真の本好きには、好きな本一冊をより面白く読む努力をするか、そして好きになれる本を探す努力をするか程度の違いしかないのかもしれない。
というわけでこれからも真の本好きになるため努力していこうと思います。あけましておめでとうございました。
イルーニュの巨人(クラーク・アシュトン・スミス)
- 作者: C.A.スミス,井辻朱美
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1986/07
- メディア: 文庫
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それらの作品を読んで感じたのは、ホラーとファンタジーとSFがまだ未分化だった頃のにおいが強くあるってことで、例えるなら理屈を引いてユーモアを足したエドガー・アラン・ポオ。ネタや舞台が無意味にSFテイストな「七つの呪い」「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」、爆笑できるエイボンとモルギの珍道中、「ウボ=サスラ」の視覚的に書かれた気持ち悪さなどが心に残っている。
というわけで本書『イルーニュの巨人』だが、基本的にそういったこれまでの印象を変えるものではない。が、それなりに面白い短編はいくつかある。ホラー作品では「アヴェロワーニュの獣」「氷の魔物」、非ホラーでは「柳のある風景」「ユーヴォラン王の船旅」などなかなか楽しく読めた。ワンアイデアな話が多くあるのも、短編集として特徴的だろう。上記以外の一押しは「聖人アゼダラク」「シレールの女魔法使い」で、時間を巻き戻す薬や真実の姿を映し出す鏡などのマジックアイテムが効果的に使われている。
他の復刊フェア対象作、『大宇宙の少年』『ドリーム・マシン』『毒薬ミステリ傑作選』なんかも、機会があればぜひ読みたい。
Superman Batman: Absolute Power
Superman/Batman: Absolute Power - Volume 3 (Superman Batman)
- 作者: Jeph Loeb
- 出版社/メーカー: DC Comics
- 発売日: 2005/07/30
- メディア: ハードカバー
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あらすじ:
悪い未来人その1が地球に不時着した直後のスーパーマンを拉致!
悪い未来人その2が両親を殺された直後のブルース・ウェインを拉致!
悪い未来人その3がヒーローになるはずのキャラたちを前もって虐殺!
何年か後、世界は悪い未来人ズに操られたスーパーマンとバットマンの絶対的権力に支配されていたのです……
所持してる版の表紙は上のと違う。上段のバックに自由の女神カラーな二人の彫像があって、下段のバックにはラシュモア山に刻まれた二人の顔。すごい。
てな感じでDC版『エイジ・オブ・アポカリプス』だなーとはじめは思っていたんだけど、それは結局途中まで。いろいろあって時間軸がごっちゃになり、もとの世界に戻ろうとする二人がやがて「自分たちは悪い未来人に操られていたのだ!」と真相に気付きだすのが本筋。
ぐっとくるシーンはいろいろあって、例えば逆らうヒーローたちを二人でバキバキに弾圧するところはあまりにもしょうがなさすぎて心に残る。「双子のヒトラーどもめ!」って言ったグリーンアローを容赦なくヒートビジョンで焦がしたり、ワンダーウーマンを絞め殺してみたり、スーパーマンが「従うか、さもなくば死ね」って言うコマとかちょうビビる。結局最後は悪い未来人が来る前に世界が修正されるんだけど、仲間を弾圧し殺害したかつての記憶は二人に残っていて、軽口を叩いてくるグリーンアロー(「早くどっか行けよ、お祖母ちゃんに見張られてるような気になるぜ」)の前で心持ち暗げな顔をしているところも良いなあ。だいたいそんな感じ。
20世紀の幽霊たち(ジョー・ヒル)
S.キング
本書の感想めいたものを書く前に、少しスティーブン・キングの話をしたい。といっても全然難しい話じゃない、キング好きには有名なちょっとしたエピソードたちと雑感程度のごくごく軽いサムシングだ。
彼のキャリアの初期を見たとき、特にはじめの三作だが、家庭が崩壊するさまがさまざまなパターンで描かれていることに気づく。主人公たちの家庭は、もともと歪んでいたにしろ(『キャリー』)正常だったにしろ(『呪われた町』『シャイニング』)、異物が混入することで音をたてて崩れていってしまう。もちろんホラーというジャンルが日常の破壊であるならば、日常の象徴たる家庭などいの一番に作者から狙われて当然である。しかし、この破壊ぶりにはどこか凄味を感じる。誰かが言った言葉に「殺人とは外的な自殺である」というのがあるが、ならば多かれ少なかれ自己を投影したであろう主人公たちが人を殺し、死にそうな目にあい、死んでいくのを書くことも、同じく自殺とそれに続く何かに他ならない。例えば『呪われた町』で、主人公の一人であるホラー好きの少年マークが本物の吸血鬼と出会い辛くも生き残るさまに、同じくホラー好きだった作者の気持ちを重ねることはものすごくまっとうな読みで、彼に焦点を合わせて読むととてもメタな気持ちになれる(どうしてもダメ神父に感情移入してしまうが)。ちなみにぼくは結構『呪われた町』が好きで好きでしょうがなくて、キング版「ポケットの中の戦争」じゃね? などと世迷言を抜かすことがよくある。『屍鬼』なんて無駄に長くてこっちが死にそうになるし、オマージュといえば『クロスファイア』より『バオー来訪者』のほうが問答無用で優れていることだなあ。
閑話休題。では実際の家庭においてキングはどのような人間だったのか。キング家の人間ではない身には分からないことだが、有名なエピソードがいくつかある。ゴミ箱に捨てた『キャリー』の書きさしの原稿を妻タビサに見つけられ、「これを書きあげなさい」と言われたことや、子どもにちょっかいを掛けられて一瞬殺意を抱いたことが『シャイニング』執筆のきっかけだったこととか*1。また息子オーエンのリトルリーグ遠征を自ら記録し、短編集『ナイトメアズ&ドリームスケープス』に収録してもいる。しかしそれらから父としての夫としてのスティーブン・キング像を推察することはほとんど不可能だ。『シャイニング』のエピソードを当の子供自身はどう思っているのか、などはものすごく気になる点であるが。また先述したメタ的な読みを『シャイニング』に対してすると、主人公の少年もその父も作者の投影のためものすごく複雑な気分になるものの、結局はネガティブな感情をポジティブな感情で押し返したぞ! やったー! ということになるのだろうか。よく分からない。「処女作にはその作家のすべてが表れる」というが、『キャリー』はよく分からない小説なので、スティーブン・キングはよく分からない作家だということでOKなのだろう。
J.ヒル
さてここまでスティーブン・キングとその家庭(作中においても実際のそれも)について考えたり考えることを放棄してみたりした。なぜわざわざそんなことをしたかというと、本書『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルが彼の息子だからである。『シャイニング』執筆のきっかけとなったのが彼かどうかは分からないが、収録された数々の短編でさまざまな父子の関係が描写されていて、そういえば以前に訳された長編『ハートシェイプド・ボックス』もヒロイン(すでに死亡)の父親がひどいやつで、でも冒頭の献辞は「父さん」に対してというねじれっぷりだったなあということを思い出したところで父キングについて考えてみたというのが実際だ。ここで本書に父殺しの隠喩に満ち溢れた作品が多く含まれていれば、スティーブン・キングの性格についてちょっとした推測が可能だったが、特にそうではないので期待外れ半分、でも良い本を読んだという気持ちも半分である。というわけで本書本体の感想に移ろう。
『20世紀の幽霊たち』
『ハートシェイプド・ボックス』がロックミュージックへの愛に満ち満ちていた作品だったように、本書も様々な形でポップカルチャーへの言及をしていく。例えば映画、例えばコミック。そしてもうひとつの特徴として、ジャンル小説的でない普通の短編小説をも収録していることが挙げられる。しかしその実ほとんどすべての収録作――幻想小説であれホラー小説であれ普通のであれ――が共通点として持っているのは「ちょっとしたずれ」だ。そのずれが読者の肩をすかすものであるか、それとも登場人物を恐れさせるものであるかはともかくとして。
一足先にまとめるなら、とにかく読者の予想を裏切り期待を裏切らない、良い短編集だと思う。繰り出された足払いを警戒していると正面からドツかれ、完璧に防御を固めたら「ああ、もう帰る時間だお疲れ」などと言われ、怒って追いかければハリセンではたかれる。面白い本を探してはため息をついている人とか、とにかくスゲー本を読んでみたい人にお勧めしたい。できれば父であるスティーブン・キングの作品に目を通しておくのもいいだろうが、必須ではない。ただ、ある程度読書慣れした人のほうがいいかもだけれど。
以下に気に入った短編の感想など書きとめ、ネタバレ気味考察を行う。
*1:ソースが確認できない。ドキュメンタリーだかで言っていた気がする